上名貫拾遺集
上名貫拾遺集では、上名貫神社の鎮座する篠別府地区に伝わる言い伝えなどを記していきます。
※地域の方々の伝承を基に記載しております。
篠別府の始まり
古老の言い伝えによると、篠別府は古くは荒地で人気のない地であったという。
当地の北側には河童伝説で有名な名貫川が流れている。
古い時代には川に橋が架けられておらず、川中にある飛び石を辿って人々は川を渡っていたようであった。
江戸時代に入る頃、参勤交代で殿様ご一向がこの川を渡る際に、雨の為に増水した場合、数日足止めを食らうことを想定してのことと思われるが、この数日の宿をとる為に、川の北側(現在の名貫地区や新田地区など)から人々を移住させたのだと云うのである。これが篠別府地区の始まりであると伝えられている。
因みに、昔は上名貫神社の北側(現在地の北側)に庄屋があり、そこに川の増水で足止めされた殿様ご一向が数日お泊りになっていたそうである。
なお、篠別府という村の名前が始めて記録として現れるのは、江戸時代前期(4代将軍徳川家綱の時代)の寛文4年(1664)に高鍋藩が幕府に差出した「日向国内秋月領知覚」という古い記録であるとの事。
比木神社の神門御神幸の立ち寄り
比木神社(木城町)にお祀りされている福智王が、神門神社(美郷町)にお祀りされている父の禎嘉王の元を訪ねるお祭り「神門御神幸祭(師走まつり)」は全国的にも大変珍しい奇祭として有名である。
この神門御神幸については、比木神社から神門神社に向かう経路「あがりまし」と神門神社から比木神社に帰る「くだりまし」の途中で立ち寄る場所が点在している。
このお祭りの立ち寄り所について、昔は「くだりまし」の際に都農町藤見地区にも立ち寄っていたことが知られている。しかし、昔は篠別府地区でも「あがりまし」の際に立ち寄っていたことが伝えられている。
言い伝えによれば、その昔、神門御神幸の一行が神門神社に向かう途上に当村(篠別府)に立ち寄っていたとの事。村人たちは各々手作りの野菜や果物を持ち寄り、一行に持たせようとしたという。しかし、一行は「これからまだ神門神社までの旅路が長いので、せっかくだが持っていけない。」というのである。そこで村人たちは考え、各々持参した野菜や果物を村人同士で売買して、それで得たお金を旅の足しにと一向に渡したのだという。その後も毎年同じように村人同士で野菜や果物を売買して得たお金を一向に渡していたとの事である。昔は神門御神幸の一行が立ち寄ると大変賑わっていたそうである。現在では、神門御神幸の一行は篠別府・藤見両地区に立ち寄っていない。